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【寝言】支那思想史

狩野直喜中国哲学史」

ここしばらく気分転換に少しづつ読んでいました。数年前に、古本屋で千円ばかりで買いました。

武内義雄の「支那思想史」と合わせて読むと、師匠の狩野直喜が提起した問などに、武内義雄が研究を進めて答えている感じで面白いと感じました。支那思想史の簡潔さも、このようなまとめの上に可能になったものかと思います。

以前に読んだときは、宋学以降がつまらなくて、清朝考証学者の列挙羅列にもうんざりしましたが、今回読んでみると東漢後漢)から西漢前漢)へ逆行してゆく清朝考証学の流れも分かって、康有為の孔子教の出所などもはっきりし、興味深く読めました。

共産中国もいずれは儒教へ回帰してゆくと思いますが、戻ろうにもどこへ戻っていいのやら?w 私としては孔子教復活で馬鹿をやる日を楽しみにしています。

本邦の江戸時代の宋学批判者は、漢代を飛ばして戦国期の儒学ないし孔子の考えそのものに遡ろうとしましたが、支那人は遡るのも、もっぱら漢代の注疏に留まったのが面白いところです。

宋学のいいところは、量が多く意味不明で難解な五経は読まなくてよくて、四書だけを読めば十分という隠された真の動機。ハウツー本・ダイジェスト本に通ずるいい感じの思想。ダメなのは、仏教からアイデア丸パクリなのに、それを姑息に隠そうとして、無駄に理屈が複雑なところ。

中国哲学史 (1953年)

中国哲学史 (1953年)

中国哲学史 (岩波オンデマンドブックス)|岩波オンデマンドブックス

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中国思想史 (岩波全書 73)

中国思想史 (岩波全書 73)

孔子の考えについての寝言:

孔子が周公旦に見た新機軸は自我の発見(内省の発明)だと思われます。当時としては画期的な能力であったのでしょう。(Rubyラーが reflection を自慢するくらいw)

「忠」は己の内面の省察、「恕」は対称性による他人の内面の推察にあたると思われます。

ここで、他人の内心の省察は友愛w方向へ向かうと前提しこれを「仁」としたと考えます。

この前提の根拠は二つあって、親子の愛情の「孝」と兄弟の愛情の「悌」の存在でしょう。(素朴な周初には、アメリカの西部劇に見られるように、○○一家とか○○兄弟とかが当然の協力単位だったのだろうと思います。)

また、孔子はこれらは人間に先験的に与えられているものとして、証明不用なほど自明と見做していたのでしょう。それゆえ「性」を語らなかった事が説明されます。

但し、孔子は親兄弟が骨肉相争う春秋時代を遺憾に思って活動しているので、前提が成立していないという矛盾が生じますw

結局、自我の内省(及びその外延)である忠(恕)の発見・発明が最も大事で、仁は忠恕した結果なすもの。何をなすかは孝悌を前提とした善行。これを親兄弟を離れて外挿してゆけば他人との友、そしてさらにその先に及んで広がってゆくもの。と、私には思われます。