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fortran について書きます。

【寝言】昔の現代文学w

ボルヘス「七つの夜」イタロ・カルヴィーノ「アメリカ講義」

暇つぶしに(斜めに)読みました。

七つの夜 (岩波文庫)

七つの夜 (岩波文庫)

カルヴィーノ アメリカ講義――新たな千年紀のための六つのメモ (岩波文庫)

カルヴィーノ アメリカ講義――新たな千年紀のための六つのメモ (岩波文庫)

ボルヘスの方は、「詩という仕事について」にすれば、両方ともハーバード大の講義になって対称性がいいだろ、と思われますが、たまたま本屋に無かったのでお許しを。

詩という仕事について (岩波文庫)

詩という仕事について (岩波文庫)

七つの夜は1977年の講演集、アメリカ講義の方は1985年の講義録で、70年代後半から80年代にかけての現代文学のおばあちゃんちのタンスのショウノウの香り漂う本です。

内容はオーバーラップしつつ大量に古典を参照し、時代精神を反映してか本や文字記述そのものに対して異様なまでに価値や信頼を置いていて、ネット全盛の今見ると違和感を感じます。

支那文学史での、漢代に辞賦による多弁によって世界を文字で描きつくそうという試みが挫折して、空疎な六朝をへて、唐代に絶句律詩によるスケッチ的部分描写による世界記述にたどり着いた、という解説を信じれば漢代の如き有様です。

もっとも戦前の支那紹介をみると、支那人は文字の書かれたものをありがたがって、文盲の支那土民はたばこの包み紙でも、文字が書いてあると拾って大事にしている、とあるので、かなり遅くまで文字崇拝を続けていたのかもしれません。天安門広場の壁新聞くらいまでw

しかしこうしてみると、1990年代のCD-ROMでマルチメディアの時代がやって来る!というのもあながち嘘ではなかったのかもしれません。

Fortran入れ子の段数

ボルヘスは「千夜一夜」について述べていますが、「千夜一夜」は登場人物が話す物語の中の登場人物が物語を話し出して、その中の登場人物がまた物語を話し始めるという、入れ子の構造をしていています。このわけのわからない迷宮感がとても魅力的で、色々な模倣を生み出しましたが、分かりにくいことこの上ないです。

Fortran は、Module や 副プログラムの入れ子の段数に厳しい制限があって、ほぼ単段に近いのですが、これは正しい選択だと思います。

すなわち Module の中に Subroutine/Function の副プログラム、副プログラムの中に機能に制約のある内部副プログラムが1段。(Modula-2 などでは、Module の中に Module が存在可能。)

プログラムを書く段には、呼び出し関係から入れ子構造を思い浮かべやすくて、その通りに作りたいと思うものですが、他人の書いた入れ子の深いプログラムは、すぐ千夜一夜式に分かりにくいものに見えます。書式上のインデントも、長いプログラムではそれほど助けにならない場合が多いと思います。

地下鉄のザジレーモン・クノーのシュルレアリズム詩に、インデントがつけてある千夜一夜式の入れ子話がありましたが、インデントがついていても、わけのわからなさは全く変わらなかった覚えがあります。

地下鉄のザジ (中公文庫)

地下鉄のザジ (中公文庫)

ルクレチウスとラプラスの魔

カルヴィーノの講義の章立てはなかなかよくて、

  1. 軽さ
  2. 速さ
  3. 正確さ
  4. 視覚性
  5. 多様性

となっています。

その第一章では、オウィディウスとルクレーティウスとが、道家思想の物化的なメタモルフォーゼと原子論的離散集合を対比させて出てきます。

オウィディウス 変身物語〈上〉 (岩波文庫)

オウィディウス 変身物語〈上〉 (岩波文庫)

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

ルクレーティウスはデモクリトスエピクロスからの原子論を受け継いでいますが、原子論者はデモクリトスの頃に、すでに後にラプラスの魔として知られる初期値による決定論の難点を指摘されていました。特にそのことが自由意思の存在を否定するので、原子論を取りながらよりよく生きる意志や努力を説くことの矛盾を論難されていました。そこで、エピクロスが原子は理由もなく時々偶然に進路を変えるんだと主張しはじめたと言われています。それはルクレ―ティウスにも表れて、読むものを困惑させてきました。

この理由なき進路変更の主張は、同時代人やその後の人々の失笑を買いましたが、その後ラプラスの魔を回避する量子力学の確率解釈につながっているので馬鹿に出来ません。西洋人の哲学の伝燈を垣間見るとともに、人間の発想の貧困さも感じさせます。

Hellenistic Philosophy: Stoics, Epicureans, Sceptics

Hellenistic Philosophy: Stoics, Epicureans, Sceptics

話の始まりと終わり

カルヴィーノのアメリカ講義には補遺の章があって、話のはじめ方と終わり方についてグズグズ述べています。

アニメも90年代までは、起承転結モデルに従って一話と最終話の前後二話くらいを起・転・結に配して、残りは適当にキャラを立てる感じでやっていましたが、最近は日常系萌4コマフォーマットの完成とともに、転結抜きの人生の一局面の一瞬のスケッチ的な話法が完成したように思います。

今や視聴者側もよく教育されて、起承転結構造が無くても全然おかしいと思わないし不満も感じないようになったので、面白いものだと思います。ココロ図書館の頃に、余りにも話に構造が無く何も起こらないのでこれは死後の世界の無間地獄を描いているという解釈が出たの比して、時代を画した気がします。

ココロ図書館(1) [DVD]

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昔「むかつく!」という卑語が、丁度サルトルの「嘔吐」と同じ意味で使われ出して、実存主義がここまで大衆化したかwと言われた頃からさらに時が流れて、脱構築ポストモダンがアニメにおいて上手に完成したと言えましょうww

嘔吐 新訳

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