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末子相続から長子相続へ

周公旦の政治改革のキモの一つは、遊牧民族的な兄弟・末子相続から、農耕定住民族的な父子・長子相続に、相続制度を変えた点にあります。*1周公旦は、武王の弟でしたが、武王の死後王位を継承せず、武王のまだ幼ない子を王位につけて自らは補佐役となりました。
一方、呉の国は姫姓で、文王の伯父が封ぜられて建った国です。これは文王の父の王季が末っ子で、末子相続によって王位を得たものと思われます。(伝説では、兄二人が空気を読んで自分で家を出て行ったことになっていますが。)呉の国では十九世にして壽夢王にいたり、その次の代から長子相続に変わったという話が残っています。「季札懸剣」のエピソードです。
「季札懸剣」とは、季札が宝剣を欲しがっている徐君の心を読んで、剣をあげるつもりだったが、あげる前に死んじゃったので、徐君の墓に宝剣を懸けて去るというイマイチ意味不明な美談です。よくよく読み返すと、兄弟・末子相続をやめて長子相続に変えたという周公旦と同じ構造の美談が話の主になっていて、懸剣のほうはどうでもいい蛇足の美談というか、美談にするつもりで飾ったら意味不明になったという気がします。
もし本当に美談を意図したならば、徐君は季札の兄だったのではないかとも思われます。相手の心を察する恕と兄弟間の無償の愛たる悌の一石二鳥的実現にかなっているので。

追記平成二十四年二月二十八日
春秋公羊伝では三人の兄は次々死んで位を譲ったとのこと。(これ自体は怪しい話。)徐君は、中原の方の呉からみて先進国の殿様を言っているようで、兄弟ではない模様。

*1:武内義雄「儒教の精神」