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狩野直喜『中国哲学史』

本来『支那哲学史』という題名になるべきものを、岩波とかアカのクズが支那の呼称を検閲して使わないので変な題名になっています。政治権力に安易におもねる態度で学問や言論の自由が守れるものでしょうか。コペル君もびっくり。支那人のコスプレをして喜んでいた吉川幸次郎が編集に加わってはもう駄目。中共の人民服でも着て南京町のあいまい宿で阿片でも吹かしておればいいものを。

狩野直喜には武内義雄が学んでいるので、武内義雄の『支那思想史』とセットで読むと良いようです。より各論的な内容に詳しくて相補的になってます。清朝考証学の流れを汲んでいるせいか、合理的かつ明快で読みやすいです。

その後の学問の進歩で、今読むと滑稽なところもあります。第二編第三章の終わりに、「第二、中国には古来、人を犠牲として神を祭るがごとき非人道的儀式がなかったことこれである」「中国の神祇に関してはかくの如き考なく、きわめて道徳的である。このことは中国人の誇りとすべきところであろう。しかしながら、又一方より観念すれば、中国人がひたすら道徳的であったということは」云々。

今では殷代の人間狩りと、宗教儀礼としての大量殺人による生贄の事実が明らかになっております。また、マルクス・レーニン教の共産中国の薄汚い大量殺人のざまを見るにつけ、中国が道徳的とかその誇りとか読むと、滑稽千万で吹き出しそうになります。

近頃、支那・朝鮮をもてはやす風潮が一部の軽薄子にありますが、戦前ヒットラースターリンに惚れ込んで、革新だの革命だのと喚いていた連中そのものだと思います。完全なる過ちであり、愚劣な考えだと思います。近代を超克した現代の日本の価値観を理解できない連中が、支那・朝鮮のごとき野蛮と迷信に満ちた前近代的な未開社会に奇妙な親近感を抱いて、退化の逆コースを辿っているのでしょうが、冗談ですまないあまりに危険な戯れかと思います。