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しつこく澹薹滅明

ネットで検索すること3時間。邪推するに・・

澹薹滅明は、魯の国の澹薹山のふもとで生まれ育ち、子游が武城の宰をやっていた時にその部下となり、子游が呉へ帰るときについて行って南方で偉くなった。川でワニと戦った。息子は川で溺れ死んだが、死体は見つからなかった。孔子は顔で人物判断をしたが、見損なった。

という感じ?(当時の魯の国に澹薹山という呼び名が本当に存在していたかは未確認。今後の課題とします。)

年齢と容貌に関しては文献で矛盾があります。
年齢は、子游より若い方がもっともな気がします。
容貌は、イケ面ブサ面両説ありますが、孔子が顔で判断して間違ったという点は共通しています。文献によって、イケ面で過大評価されたパターンとブサ面で過小評価されたパターンに分かれます。孔子家語には、澹薹滅明の次にブサ面の高柴が出てくるので、澹薹滅明は本当はイケ面でどっかで話が混じったんじゃないかという気がします。
孔子にイケ面で過大評価されたが、イマイチ見かけ倒しだった。しかし孔子の死後、南方で活躍したのでやっぱ偉かった、というのが真実ではないかと妄想します。(これも今後の課題とします。)
追記2011-2-18
しかし、つらつら考えるにイケメン過剰評価説は、へらへら宰我と対称性良く出てきているので、人工的で嘘っぽい感じがしなくもないです。また、支那人の澹薹山に基づく「清水の次郎長的」な命名説も根拠がなくて気になります。滅明という名も子羽と関連する隠れた意味があるのか気になります。

2009-07-12 河図とは? 編集
澹台滅明(たんだいめつめい)という珍奇な名前は何なのか?

論語』の雍也第六-14に、「子游為武城宰、子曰、女得人焉爾乎、曰、有澹台滅明者、行不由径、非公事、未嘗至於偃之室也。」 (子游、武城の宰と為る。子曰く、汝、人を得たるか。曰く、澹台滅明という者あり。行くに径に由らず、公事に非ざれば、未だ嘗て偃の室に至らざるなり。 )とあります。

注に、澹台滅明とは人名なりとありますが、支那人らしからぬ珍妙な名であります。

金谷治『孔子』(講談社学術文庫)p331によると、『史記』の儒林伝に「澹台子羽は楚に居り」とあるらしいです。

澹台子羽というのは、子游が武城の宰(とりしまり)になってから見出された人物で、晩年の門生である。『史記』によると、南方揚子江の辺りに移ってから「弟子三百人、名は諸侯に施す」といわれて、大変な活躍ぶりであったらしい。

加地伸行『「論語」再説 』(中公文庫)p111

例えば、澹台滅明という若い弟子の場合、醜男であった。そこで孔子は、たいしたことはなかろう、「材(才能)、薄し」(『史記』仲尼弟子列伝 )と思ったのである。しかし、彼は、後に三百人からの弟子を持つほどの人物であった。後に孔子は、彼を容貌で判断して誤ったと悔いている(同前)。

(略)

  • 孔子家語 巻之九 七十二弟子解 第三十八  岩波文庫 201頁

澹薹滅明は武城の人、字は子羽。孔子より少きこと四十九歳。君子の姿有り。孔子嘗て容貌を以てその才を望みたるに、その才は孔子の望に充たざりき。然れども、その人と爲り公正にして私無く、以て取與・去就し、諾を以て名を爲す。魯に仕えて大夫と爲る。

13澹薹滅明は武城の人。字は子羽。孔子より二十九歳年少。容貌がはなはだみにくかった。孔子に師事しようとしたときも、孔子はかれの資質は浅いと考えた。学問を習得したのちは、しりぞいて行いを修め、けっして抜けみちを通らず、公用がなければ卿・大夫に面会しなかった。南へ旅行し江南に達した。彼についた弟子は三百人。出処進退を明らかにして、その名は諸侯のあいだにひろまった。それを伝え聞いた孔子は、「わしは言だけで人をみて、宰予の場合に失敗した。容貌だけで人をみて、子羽の場合に失敗した」と言ったのである。

澹薹子羽は君子の容あり。仲尼幾(期)してこれを取るも、与に処ること久しくして行ない其の貌に称わず。宰予の辞は雅にして文なり。仲尼幾してこれを取るも、与に処ること久しくして智其の弁に充たず。故に孔子曰わく、容を以て人を取らんか、これを子羽に失せり。言を以て人を取らんか、これを宰予に失せり。

孔子曰『吾欲以顔色取人,於滅明(澹臺滅明)邪改之;吾欲以語言取人,於予(宰我)邪改之。』

本文少し上にも滅への言及あり。

儒林列傳 第六十一
http://homepage.mac.com/two_yossy/fang-hu_island/03-sibu/01-siki/121-0-text_01.html
・・・澹臺子羽は楚に居り・・・

【三家注】

今の蘇州城の南五里に澹台湖有り、湖北に澹台有り。

〔補 注〕

論語』雍也篇に、「子游 武城の宰と為る。子の曰く、『女(なんぢ)、人を得たるや(得人焉耳乎)』と。曰く、『澹台滅明なる者有り。行くに径に由らず、公事に非らずんば未だ嘗て偃の室に至らざるなり』と」とある。

ちなみに何晏の注に、「包咸の曰く、『武城は魯の下邑』と。孔安国の曰く、『焉・耳・乎は皆な辞なり』と」と、また、「包咸の曰く、『澹台は姓、滅明は名、字は子羽。其の公にして且つ方なるを言ふ』と」とある。

応劭『風俗通』の佚文に、「澹台氏、澹台滅明、字は子羽、武城の人。漢に博士・澹台恭有り」とあり、澹台恭の名は『後漢書』儒林伝の薛漢の条に見える。

なお、異説を紹介する。
張華の『博物志』(巻八)に、「澹台子羽の子 溺れて水死し、之を葬らんと欲するに、滅明の曰く、『此れ命なり。螻蟻の与(ため)に何ぞ親しまん。魚鼈の与に何ぞ讎せん』と。遂に葬らしめず」と。同じくまた、「澹台子羽 河を渡るに、千金の璧を河を済さんとす。河伯 之を至陽侯に欲す。波起ち、両鮫 船を挟む。子羽 左に璧を操り右に剣を操りて、鮫を撃てば、皆な死す。既に渡り、三たび璧を河伯に投ず。河伯 躍りて之を帰す。子羽 毀ちて去る」と。文中の「至陽君」は不詳。

韓非子』顕学篇に、「澹台子羽は君子の容なり。仲尼 幾(=期)して之を取るも、与(とも)に処ること久しくして行の其の貌に称はず。宰予の辞は雅にして文なり。仲尼 幾して之を取るも、与に処ること久しくして智の其の弁に充たず。故に孔子の曰く、『容を以て人を取らんか、之を子羽に失す。言を以て人を取らんか、之を宰予に失す』と」とある

澹薹滅明の息子について

  • 博物志 卷八

http://big5.dushu.com/showbook/100983/1029963.html

澹臺子羽子溺水死,欲葬之。滅明曰:“此命也。與螻蟻何親,與魚鱉何仇”遂使勿葬。

  • 長笛の賦 馬融 文選 巻一八

2010-07-11 澹台滅明

先日、鼻糞をほじくりながら余嘉錫著『古書通例―中国文献学入門』を読んでいますと、その中に澹台滅明さんが出てきました。

196頁

なお陳皇后が再び寵愛を得たというのは、ちょうど馬融「長笛の賦」(『文選』巻一八)に
屈原は憂苦のない国へ行き、介子推は戻って禄を受け」るというのとおなじである〔馬融の賦に見える「屈原は憂苦のない国へ行き、介子推は戻って禄を受け、澹台滅明は息子の遺体を載せて帰り、皐魚は泣くのを控え、南宮長万は叛意を抱かず、高渠弥は逆恨みせず、蒯聵は敵を退け、陳不占は忠節を遂げない」の八句は、すべて事実に反する仮定である〕。
文選の注釈を見れば、新たなる澹台滅明情報が得られそうです。上記引用からするに、澹台滅明は息子を亡くしたが遺体を引き取って帰ることができなかった、というエピソードがあるのでしょう。

澹薹滅明がワニと戦った伝説w

  • 南方 熊楠 十二支考 

竜の起原と発達8

支那で古く蛟と呼んだは『呂覧』に、佽飛宝剣を得て江を渉る時二蛟その船を夾み繞ったので、飛江に入って蛟を刺し殺す。『博物志』に孔子の弟子澹台滅明璧を持って河を渡る時、河伯その璧を欲し二蛟をして船を夾ましむ。滅明左に璧右に剣を操って蛟を撃ち殺し、さてこんな目腐り璧はくれてやろうと三度投げ込んだ。河伯も気の毒かつその短気に恐縮し三度まで投げ帰したので、一旦見切った物を取り納むるような男じゃねーぞと滅明滅多無性に力み散らし、璧を毀して去ったと出づ。

  • 博物志

http://cls.hs.yzu.edu.tw/orig/Show_Content.asp?id=9445
1.《山海經‧海經》卷七〈海內北經‧從極之淵冰夷〉〜318〜

《博物志‧異聞》云:「澹臺子羽渡河,齎千金之璧於河。河伯欲之,至陽侯波起,兩鮫夾船。子羽左摻璧,右操劍,擊鮫皆死。既渡,三投璧於河,河伯躍而歸之,子羽毀而去。」

2.《太平御覽》卷九百三十〈鱗介部二‧蛟〉〜4266〜2〜

《博物志》曰:「澹臺子羽齎千金之璧渡河,河伯欲之,陽候波起,兩蛟夾船。子羽左操璧,右操劍,擊蛟,皆死。既濟,三投璧於河,河伯三躍而歸之,子羽毀璧而去。」

  • 澹台滅明斬龍毀璧賦

http://zh.wikisource.org/zh/%E6%BE%B9%E5%8F%B0%E6%BB%85%E6%98%8E%E6%96%AC%E9%BE%8D%E6%AF%80%E7%92%A7%E8%B3%A6%EF%BC%88%E4%BB%A5%E3%80%8C%E7%92%A7%E6%83%A1%E8%8B%9F%E6%B1%82%EF%BC%8C%E4%BA%BA%E9%9B%A3%E5%8A%9B%E5%88%B6%E3%80%8D%E7%82%BA%E9%9F%BB%EF%BC%89
澹台滅明斬龍毀璧賦(以「璧惡苟求,人難力制」為韻) 白行簡 

璧之為寶也至珍,龍之為物也至神。蘊彼堅貞,由是見希於代;神其變化,胡不可畏於人。苟以力奪我寶,則必害及爾身。原夫被褐而來,艤舟以濟。懷白璧為利涉,佩青蛇而自衛。光連曉日,若明鏡之高懸;影落深潭,狀白虹之初霽。孤棹才移於渡口,二龍見於波際。將至寶因此可求,謂匹夫於焉易制。徒觀其迅雷鏗訇,狂電翕。轉清輝而陽景滅曜,噴風雨而晴空變色。拖尾乃無所遁逃,矯首則方將薦食。朱萍焉能施其術,佽飛莫得用其力。滅明乃挺利劍,整扁舟。驅天吳,北陽侯。壯誌奮而發植冠聳,瞋目張而眥裂血流。白刃下耀於淵室,紫氣上衝於鬥牛。左絕其脰,右摏其喉。擢錦繢之鱗,觸驚波而乍聚乍散;灑元黃之血,隨奔流而或沉或浮。既風恬而雨絕,俄霧廓而煙收。龍實最靈,孰可以威而讋;璧惟重寶,豈得不義而求?既而弭波瀾,濟江幹。璧非人,願保全而莫可;人非劍,思耀武而誠難。然後韞神邱,即長路。持拱璧而歎息,盼中流而回顧。豈不以懷寶者為物所求,恃力者為人所惡?且龍實恃力,人惟懷璧。爾實我欺,我非爾惜。雖在時之攸重,諒於人而何益?聞老氏之誡,莫守乎滿堂;考聖人之清,不貴於盈尺。遂投之河而神罔敢受,毀於岸而人莫敢有。紛然電散,謂齊後之碎連環;騞爾星分,同亞父之撞玉鬥。則知動不可妄,求不可苟。始則將害於人,終乃自貽伊咎。胡不伏水府而藏珠於頷,照昆山而銜耀於口故貪而斃也,誠罹有悔之凶;毀以棄之,安能無脛而走?嗟乎仁必有勇,信千古而不朽。

  • 蒙求  李瀚 157 

澹台毀璧 子罕辞宝

子供の学習教材に出てくるところをみると有名な話だったのでしょう。

澹薹滅明の墓

南昌市や山東省など、各地に墓と称するものがあるらしい。(三か所くらい?)

  • 呉地記 陸廣徵

http://www4.webng.com/khcjhk/Tang/wdj1a.htm

澹臺湖,在吳縣東南十里。孔子弟子澹臺滅明,字子羽,宅陷為湖,湖側有墳。

  • 江城名蹟巻一 新建陳宏緒 撰 : 欽定四庫全書  

考古(一)
http://zh.wikisource.org/zh/%E6%B1%9F%E5%9F%8E%E5%90%8D%E8%B9%9F

舊澹臺祠 在總持寺左祀魯武城澹臺子羽祠額曰友教堂宋轉運副使程大昌剏建并撰祠記堂背即澹臺子羽墓按吾郡碑文之佳者王勃滕王閣序韓昌黎重修滕王閣記曾鞏徐孺子祠堂記與此記四篇而已而大昌之記世罕傳誦備載於此記曰豫章總持寺之東有澹臺子羽墓本圖經所傳為信也司馬遷記子羽從弟子三百人南遊至江班固又言子羽居楚友教士大夫豫章在春秋為楚則子羽宜有墓然京相鏜記子羽泰山南武城縣人也有塜水經陳留裘氏鄉又有子羽塚是一子羽也而稽之圖記其墓三出矣酈氏雖知泰山陳留必有一悞顧不敢堅决以為孰是則豫章圖經其得獨為信哉且子羽名施後世自子游之宰武城始以予所聞世盖有西武城也左馮翊清河定襄皆以名縣而清河時曰東武城者以其與定襄皆隷趙且定襄在西故也若子游之所宰其實魯邑而東武城者魯之北也故漢儒又加南以别之史遷之傳曾參曰南武城人者剙加也論語無此也子羽傳正次曾子遷務省文故叙其里邑止曰武城至京氏則指其墓在南武城縣明其為魯也夫子嘗欲適趙及河而返曰洋洋乎丘之不濟此命也韓愈亦曰孔子西行不到秦是秦趙之地皆未始經行也語曰子之武城聞絃歌之聲是絃歌云者於南武城乎聞之豈其秦趙與東武城有絃歌臺遷志遂定著以為子游所宰之邑則悞矣夫聖賢遺跡衆矣詢考二事其真偽固已相半其可勝辨哉雖然予於其偽也而有喜焉受之鹿臺魋之石槨遍四海無復出者荊山歴山首陽則不一其地後世去古聖賢絶遠既無所事畏亦豈其有諛而争獵以自夸耀乎是有一事而彼此互相同者此其意不甚可喜也哉嗚呼其可以使人慕向如此無乃古聖賢之澤久而不冺也與其亦民之秉彞者殆無古今故好是懿徳也與則其偽也乃其所以為可尚也况今之疑未必非昔之信者與淳熙元年予將江西漕過子羽墓嘆曰楚在春秋士能讀墳典邱索巳博矣其後屈宋遂為儒宗非友教遺澤歟其尊鄉固宜遂築堂祠之命曰友教

読めないw

  • 錄異記卷之八 光祿大夫尚書戶部侍郎廣成先生上柱 國蔡國公臣杜光庭纂

http://www.ctcwri.idv.tw/CTCWRI-MTS/CMT02%E6%B4%9E%E7%8E%84%E9%83%A8/CMT0210%E8%A8%98%E5%82%B3%E9%A1%9E/CH021002%E9%8C%84%E7%95%B0%E8%A8%98/CH021002-8%E9%8C%84%E7%95%B0%E8%A8%98%E5%8D%B7%E4%B9%8B%E5%85%AB.htm

鍾傳初入洪州,命修于城。軍吏散掘墓磚以稱用。功畢,傳夢一人,古服項長,貌如子路,來詣傳日:將軍何得暴我居處,令我不安,速宜修之。既覺,歷問軍吏賓客,莫能知者。市老羅通入謁日:舊圖云,城東南角三十一步,有子羽先生墓,相傳甚靈。恐軍人取磚,有所觸犯。傳使人視之,果驗。即命梵砌修飾,立亭子於其上,以表古跡,既畢,復夢致謝,傳以束帛賞羅通焉。按:澹臺滅明,仲尼弟子也,字子羽,居於武城,貌惡而廉謹。武城非豫章郡,不知何因,有墓於此?

澹台姓に関する支那人のまとめ

澹台姓
http://tc.wangchao.net.cn/baike/detail_301018.html

 一、姓氏源流
  澹台(Tán tái 澹臺)姓源流單純,源出有一:
  出自春秋時魯國孔子弟子滅明的後代,以地名爲氏。春秋時有魯國孔子的弟子,字子羽,名滅明,南遊長江流域,居于澹台湖(在今江蘇省吳縣);另一說是居于澹台山(今山東省嘉祥縣南),遂以湖(山)名命姓名,因取名澹台滅明。其後代子孫遂以澹台命姓,稱澹台氏。
  得姓始祖:澹台滅明。據《姓氏考略》記載,可知澹台一姓,是居者以地名爲姓而來的。在山東嘉祥縣南的澹台山旁,相傳古時滅明居之,即以地爲姓,稱澹台氏,故名爲澹台滅明,字爲子羽。後來,澹台滅明南遊至江蘇吳縣東南居住。他的住地附近,後來地陷爲湖,人稱澹台湖,也就是今蘇州著名的澹台湖,湖側仍有墳可見。依照《史記》的記載,澹台滅明是當時的魯國武城邑人,即今山東省人。他們的得姓曆史大約在2500年左右。望族居太原郡(今山西省太原縣)。故澹台姓的始祖就是澹台滅明。
  二、遷徙分布
  (缺)澹台姓在大陸和台灣沒有列入百家姓前一百位。澹台姓起源于春秋時候,魯國地名爲澹台山(今山東省嘉祥縣南),後來有孔子的弟子,字子羽,名滅明,相貌醜陋,但品行端正,喜歡這裏的風景並居住于此,就以山名作爲自己的姓氏,故叫澹台滅明。他的後代,就承繼澹台爲姓,世傳澹台氏。另一種說法,也是源于地名,但是一名爲澹台的湖泊。書載,滅明南下遊曆各地,曾居于澹台湖濱,並以湖名爲姓。後人因之。澹台氏如今並不多見,許多澹台氏早就簡化成台氏了。澹台姓望出太原郡,戰國時秦莊襄王置郡。治所是晉陽,在今山西省太原市西南。
  三、曆史名人
  澹台滅明:春秋末年魯國武城(今山東省平邑縣南)人。姓澹台,名滅明,字子羽,孔子七十二弟子之一。其相貌醜陋,但爲人公正,非公事不見卿大夫,受到孔子的推崇。據《史記·仲尼弟子列傳》說他“行不由徑,非公事不見卿大夫”。後來遊學于江淮,弟子多達300人,名揚各諸侯國。因其貌醜,孔子開始曾以爲才薄,當發現其優點後,則自稱“以貌取人,失之子羽”。唐開元二十七年(739年)追封“江伯”。宋大中祥符二年(1009年)加封“金鄉侯”。明嘉靖九年(1530年)改稱“先賢澹台子”。
  澹台敬伯:東漢名士,又名澹台恭,會稽人。向薛漢爲師學習《韓詩》,爲薛漢最知名的弟子之一。薛漢的弟子中,以澹台敬伯與杜撫、韓伯高等最爲知名。
  四、郡望堂號
  1、郡望
  太原郡:秦漢太原郡治所在晉陽,在今太原市西南。隋改晉陽爲太原,又另設晉陽,與太原同城。唐太原府洽亦在此地。宋太宗太平興國中,改並州爲太原府,移治陽曲(今太原市)。以後宋、金河東路、河東北路,明清以來省會都在此地。
  2、堂號
  斬蛟堂、毀璧堂:孔子有弟子澹台滅明,道紱高尚,走路不走小路,非因公事,不見官。子遊很稱贊他。有一天,他帶了千金文璧渡河。船到河心時,突然起了大浪,兩條蛟夾著船不讓走。澹台滅明說:“我這個人,只能夠用仁義的方法取走我的東西,決不能用勢力威脅我而搶劫我的東西!”說罷,就拔出劍來將兩蛟斬死。蛟死後,浪也平了。澹台滅明把璧扔到河裏,誰知投了3次,璧又跳到船上3次,他最後把璧毀掉走了。澹台氏因以“斬蛟”、“毀璧”爲堂號。
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  【澹台姓宗祠通用對聯】
  〖澹台姓宗祠四言通用聯〗
  望出太原;
  源自澹山。
  ――佚名撰澹台姓宗祠通用聯
  全聯典指澹台姓的郡望和源流(見上題頭《四、郡望堂號》和《一、姓氏源流》介紹)。
  行高避徑;
  學博通詩。
  ――佚名撰澹台姓宗祠通用聯
  上聯典指春秋時魯國武城人澹台滅明,字子羽,孔子弟子,相貌醜陋,但品行高潔端正,光明磊落,從不走歪門邪道,不爲公事從不去見卿大夫。孔子後來說:“以貌取人,會失去子羽。”下聯典指東漢會稽人澹台敬伯,跟從薛漢學習《韓詩》。薛漢的弟子中,他和杜撫、韓伯高最知名。
  春秋世澤;
  投璧家聲。
  ――佚名撰澹台姓宗祠通用聯
  全聯典指春秋人澹台滅明,爲孔子弟子,嘗渡河斬蛟,投璧于河。
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  〖澹台姓宗祠六言通用聯〗
  春秋孔子高弟;
  漢代薛師名徒。
  ――佚名撰澹台姓宗祠通用聯
  上聯典指春秋時,魯國賢人澹台滅明,爲孔子高足弟子。下聯典指東漢名士澹台敬伯,會稽人。師薛漢習韓詩,漢弟子中,以敬伯與杜撫等最知名。
  -----------------------------------------------------------------
  〖澹台姓宗祠七言以上通用聯〗
  立品端方,不逐風塵勢利;
  守身剛毅,頓除蛟孽波濤。
  ――佚名撰澹台姓宗祠通用聯
  全聯典指春秋時魯國名賢澹台滅明,字子羽,武城人,潔操自守,非公事不入邑宰之門(見上題頭《四、郡望堂號·2、堂號》介紹)。
  學授聖門,高尚表武城之節;
  紱娴容止,英豪仰投璧之威。
  ――佚名撰澹台姓宗祠通用聯
  同上。
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  【澹台姓典故、趣事】
  〖以貌取人,失之子羽〗
  出處:《史記·仲尼弟子列傳》載,孔子聞之曰:“吾以言取人,失之宰予,以貌取人,失之子羽。”
  釋義:意思是只根據外貌來判斷人品質能力的好壞。
  故事:孔子有許許多多弟子,其中有一個名叫宰予的,能說會道,利口善辯。他開始給孔子的印象不錯,但後來漸漸地露出了真相:既無仁紱又十分懶惰;大白天不讀書聽講,躺在床上睡大覺。爲此,孔子罵他是“朽木不可雕”。孔子的另一個弟子,叫澹台滅明,字子羽,是魯國人,比孔子小三十九歲。子羽的體態和相貌很醜陋,想要事奉孔子孔子開始認爲他資質低下,難以成才,故不爲孔子所器重。但他從師學習後,回去就致力于修身實踐,處事光明正大,不走邪路;不是爲了公事,從不去會見公卿大夫。後來,子羽遊曆到長江,南遊至江西,在南昌定居,並設立書院講學,跟隨他的弟子有三百人,聲譽很高,各諸侯國都傳誦他的名字。孔子聽說了這件事,感慨他說:“以貌取人,失之子羽”,意思說“我只憑言辭判斷人品質能力的好壞,結果對宰予的判斷就錯了;我只憑相貌判斷人 品質能力的好壞,結果對子羽的判斷又錯了。” 而懊悔莫及,成語“以貌取人”的典故由此而來。
  澹台滅明品行端正,鄙視趨炎附勢的世俗,因此賢名遠揚。據說,當年澹台滅明進入南昌城,就是由進賢門而入。他設立書院講學,對南昌的文化産生了較大的影響,因此,南昌人亦希望更多如澹台滅明一樣的賢士能來南昌,故而將澹台滅明進入南昌時的城門命名爲“進賢門”。進賢門,又名撫州門、望仙門。位于今永叔路、系馬樁交彙口附近,因附近有梅尉官舍而得名。以前這一帶農田菜地居多,運肥挑菜的人群自晨至晚川流不息。城外又有多處墳山墓地,送喪掃墓者常有來去。故有“挑桶賣菜撫州門”或“哭哭啼啼進賢門”之民諺。爲了接納更多的賢人高士來南昌,樹立南昌城南大門的形象,便在進賢門外修築了繩金塔。(王朝網絡 wangchao.net.cn)

澹台滅明

先日、鼻糞をほじくりながら余嘉錫著『古書通例―中国文献学入門』を読んでいますと、その中に澹台滅明さんが出てきました。

196頁
なお陳皇后が再び寵愛を得たというのは、ちょうど馬融「長笛の賦」(『文選』巻一八)に
屈原は憂苦のない国へ行き、介子推は戻って禄を受け」るというのとおなじである〔馬融の賦に見える「屈原は憂苦のない国へ行き、介子推は戻って禄を受け、澹台滅明は息子の遺体を載せて帰り、皐魚は泣くのを控え、南宮長万は叛意を抱かず、高渠弥は逆恨みせず、蒯聵は敵を退け、陳不占は忠節を遂げない」の八句は、すべて事実に反する仮定である〕。

文選の注釈を見れば、新たなる澹台滅明情報が得られそうです。上記引用からするに、澹台滅明は息子を亡くしたが遺体を引き取って帰ることができなかった、というエピソードがあるのでしょう。

澹台滅明(たんだいめつめい)という珍奇な名前は何なのか?

論語』の雍也第六-14に、「子游為武城宰、子曰、女得人焉爾乎、曰、有澹台滅明者、行不由径、非公事、未嘗至於偃之室也。」 (子游、武城の宰と為る。子曰く、汝、人を得たるか。曰く、澹台滅明という者あり。行くに径に由らず、公事に非ざれば、未だ嘗て偃の室に至らざるなり。 )とあります。

注に、澹台滅明とは人名なりとありますが、支那人らしからぬ珍妙な名であります。

金谷治『孔子』(講談社学術文庫)p331によると、『史記』の儒林伝に「澹台子羽は楚に居り」とあるらしいです。

澹台子羽というのは、子游が武城の宰(とりしまり)になってから見出された人物で、晩年の門生である。『史記』によると、南方揚子江の辺りに移ってから「弟子三百人、名は諸侯に施す」といわれて、大変な活躍ぶりであったらしい。

加地伸行『「論語」再説 』(中公文庫)p111

例えば、澹台滅明という若い弟子の場合、醜男であった。そこで孔子は、たいしたことはなかろう、「材(才能)、薄し」(『史記』仲尼弟子列伝 )と思ったのである。しかし、彼は、後に三百人からの弟子を持つほどの人物であった。後に孔子は、彼を容貌で判断して誤ったと悔いている(同前)。

孫引きばかりでなんですが、これから察するに、澹台滅明は南方の異民族出身なので、名前も外見も支那人らしくなかった、ということが邪推できると思います。孔子は人種的偏見から差別をしていたのでしょう。

孔子よりアナゴさんのほうがいいですね!
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